日本では男らしい、女らしいという言葉をあまり積極的に使わなくなったように思う。
男も女も、仕事、個人的な事、社会的な繋がりなど多くのことを、性別ではなく自分の意思で決める自由があり、そうするのが現代風、という雰囲気があるからだと思う。男らしさ、女らしさに注視することが嫌われる場合もあるかもしれない。
さて、インドシナの人びとは、主に家単位で守られてきた伝統的な職業と、家族生活の中での役割などから、ごく自然に男女らしいセクシャリティーを備えている。
これは各人の性格のことではなく、彼らが描く人生の輪郭とそれが放つ鱗粉のようなもの。
ベトナムでもカンボジアでも多くの人たちは、仕事を選り好みすることは少ない。これは暮らしの厳しさが背景にあるからでもあるが、どんな時でも彼らは人の言うことをまず聴き、自分が男として、女として何ができるか考え判断し、相手や自分自身に返答をあたえる。
もちろん、自分の利益のほかには興味をもたない、物事の判断基準は第一に自分の利、という考えは一般的で、都市でも田舎でも絵に描いたような善良な人はいない。しかし多くの男性はシャイで、女性はおせっかい焼きであり、それぞれに、自然と役割がついている。
今日はメコンデルタで出会った男女の写真を掲載。どれも昔の写真ではなく二〇一三年に撮影したものです。インドシナを少し離れてこれらの写真を眺めると、彼ら、彼女たちのセクシャリティーはどこか懐かしく、二十世紀の残滓をのこしていると、私の感情が告げます。
トップの写真は、田舎の飲料店のにいちゃん。二十一世紀のいま、上半身裸の男はあまり見かけない。(Ken)
メコンの女性。水色の木壁とのコントラストが美しい。
一九六〇年代風の飲料店、背丈の低い椅子にすわり濃いコーヒーを飲むのがベトナム風の喫茶。
渋みの強いベトナムのお茶を飲みながら夕方から夜に景色がながれていく様を見る。